2010年3月27日土曜日

弘前大学は国立、青森大学は私立

先日、文部科学省による国立大学の評価に関して、「弘前大」という大学名が、新聞紙上を賑わしていた。あの評価、弘前大学の関係者にとっては不本意だったことだろう。

ただ、今回の報道で、初めて弘前大の名を知ったという方も多かったのではないかと思う。そして、「弘前大って、私立みたいな名前だけど国立なのか!」と驚かれた方も多かったのではないかと思う。

弘前大は、青森県にある国立大学だ。一方、青森大学という大学もあるが、これは私立大学である。

このあたり、分かりにくい。県名大学が必ずしも国立大学とは限らないのだ。同様の例は、全国の都道府県でいくつかある。私が知る限りでは、以下の通りだ。

青森県 :青森大学 ⇒私立 弘前大学  ⇒国立
宮城県 :宮城大学 ⇒公立 東北大学  ⇒国立
栃木県 :栃木大学 ⇒なし 宇都宮大学 ⇒国立
神奈川県:神奈川大学⇒私立 横浜国立大学⇒国立
石川県 :石川大学 ⇒なし 金沢大学  ⇒国立
長野県 :長野大学 ⇒私立 信州大学  ⇒国立
愛知県 :愛知大学 ⇒私立 名古屋大学 ⇒国立
兵庫県 :兵庫大学 ⇒私立 神戸大学  ⇒国立
奈良県 :奈良大学 ⇒私立 奈良女子大学⇒国立
福岡県 :福岡大学 ⇒私立 九州大学  ⇒国立
沖縄県 :沖縄大学 ⇒私立 琉球大学  ⇒国立

そのほか、まぎわらしそうな大学。

北陸大学⇒私立 関西大学⇒私立 近畿大学⇒私立 四国大学⇒私立

油断すると旧帝大と勘違いしてしまいそうな名前だ。関西大や近畿大はわりと有名だが。あと、かつては「本州大学」という私立大学が存在したと聞く。

あと、ご存知の方も多いかもしれないが、この大学も私立であることを付言しておく。

日本大学⇒私立

2010年3月25日木曜日

就職氷河期で普通という感覚

イギリスのニュース雑誌(本当は新聞)The Economist が、日本の大卒者が直面する厳しい雇用情勢を簡潔に紹介していた。現地時間3月18日、1週間前の記事だったのだが、昨日まで気づかなかった。真面目に雑誌読んでいない証拠だ。

教育機関を出た若者が労働市場で厳しい状況に置かれているのは、金融危機後、各国概ね共通していると思う。だが、日本の場合は、つい前まで経験した就職氷河期が再来するという点で、特殊だ。だから、今回のような記事が書かれたのだろう。

最後の方で、より年齢層の高い世代の労働者について随分とはっきりした言及があったのが印象的だった。

http://www.economist.com/business-finance/displaystory.cfm?story_id=15720585&source=hptextfeature
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↑ 上記記事へのリンク。

私にとって、若者を巡る雇用情勢は厳しいのが普通、氷河期で普通という感覚だ。

バブル時代やそれ以前の雇用情勢については、リアルタイムではよく知らない。当時はまだ子供で、経済問題については詳しく分からなかった。

私が大学に進学したときには、既に大学4年生は就職氷河期ということで大きな話題になっていた。「洋ちゃんが大学を出る頃には、良くなっているといいね」などと言われたものだ。しかし、その後雇用情勢は良くなるどころかますます悪化した。氷河期はその後、多少の波を経ながら、現在に至るまでほぼ一貫して続いている。一時期、景気が上向いて売り手市場になった時期もあったが、長くは続かず、The Economist が言う「A new ice age」(新たな氷河期)が到来している状況だ。

2010年3月24日水曜日

「客は常に間違っている」

■ 「お客様は神様です」

三波春夫の「お客様は神様です」という言葉は広く知られている。ビジネス関係の書物でも、「顧客第一主義」とほぼ同義で引用されることがある。しかしこの言葉、賛否両論分かれているようだ。

だが、「お客様は神様です」は一人歩きしていて、三波春夫本人が意図した意味とは、ややかけはなれた意味で使われている。一つの言葉が広く大衆に使われていくうちに多義的になるのは私個人は必ずしも悪いこととは思わないが、亡き三波春夫が誤解を受けるようになっては気の毒だ。三波春夫の真意を知りたい方は、三波春夫のオフィシャルサイト等で調べてみることをおすすめする。

■ 「お客様は王様です」

英語圏では、「お客様は王様です」という言い回しがある。英語で書くと、The customer is king. こちらの方が、「神様」よりも私にはしっくりくる。

ほかにも、「お客様が一番です」(The customer is number one)、「お客様がボスです」(The customer is the boss)という言い方もあるらしい。

■ 「お客様は常に正しい」

「お客様は常に正しい」(The customer is always right)という表現も、よく知られている。

ただ、この言葉にも異論があるのか、アイルランドの航空会社 Ryanair の Michael O’Leary 最高経営責任者(CEO)などは、「客は常に間違っている」(The customer’s usually wrong)と発言したらしい。イギリスの経済紙 Financial Times に現地時間22日掲載された Michael Skapinker 氏のコラム "Right or wrong, the customer always matters"(電子版で確認)は、企業の顧客とのかかわり方について触れながら、ロンドンのブラックキャブの最近の動きについて論評が行われている。

2010年3月23日火曜日

3連休をどう過ごしたか

連休など私にはあってないようなものだが、この3連休をいかに過ごしたかを日記風に簡潔にまとめる。

■ 3月20日(土)

1日早いお彼岸のお墓参りに行った。21日は天気が崩れるから1日早く行こうという親の命令、もとい提案だった。

お墓参りは家族のほか、親戚の祖母も一緒に行った。このため、目的のお墓は、富重家の墓と祖母の家の墓の二箇所だった。

私は運転係だった。墓参と夕食(外食)の時間を挟んで、3時間ほど運転した。
帰ったらぐったりしてしまった。

遅い時間帯に墓参したためか、それとも1日早く行ったためか、あまり人は見かけなかった。

今日の更新。

[ひきこもり英語ブログ]

やさしいひきこもり英語-仮定法と社会参加の可能性新しいウィンドウで開く

[Hikikomori - Social withdrawal in Japan]

Youth Independent Camp is to be closed新しいウィンドウで開く

■ 3月21日(日) 春分の日

外は強風で天気が悪く、黄砂まで吹いていた。このため、外出は控えた。

大河ドラマ「龍馬伝」の吉田東洋、非常に優秀な人物に描かれているが、歯に衣着せぬ物言いが人心を傷つけている。次回で暗殺されるようだが、暗殺の理由は武市半平太との思想上の隔たりだけでなく、怨嗟まで加わっているようだ。怨嗟も理由というのがドラマらしいし、暗殺という極端な手段がとられる説得力を感じる。

ブログの更新は今日はなし。連休の中日だし、更新できなくても大きな問題はあるまい。

■ 3月22日(月) 振替休日

休日が多いと、どんどん昼夜逆転が進行していってよくない。

今日の主な更新。

[ニートひきこもりJournal]

自分は仕事人間になると思ってた新しいウィンドウで開く

[場面緘黙症Journal]

ブログ更新(緘黙ストーリー・合格発表)新しいウィンドウで開く

「最近の緘黙関連論文」を更新新しいウィンドウで開く

2010年3月15日月曜日

公立高で合格発表 1,234人に春来ず-架空新聞

富重県の全日制公立高校の合格発表が15日午前9時、一斉に行われ、1,234人が不合格だった。一方、合格者は9,877人で、実質倍率は1.12倍(前年度1.11倍)。

不合格者の多くは落ち込んだり、悔しがったりしていて、歓喜に満ちた表情の合格者とは対照的だった。

■ 不合格者の表情

◇ 大学受験でリベンジ

A高校で不合格だった山田太郎さん(有瑠歩亜中3年)は、「いち早く受験勉強に取りかかり死ぬ気で頑張ってきたのに。とても悔しい。悔しくて仕方がない。大学受験でリベンジを果たす」と悔しさをにじませていた。

◇ 倍率が高く、何が起るか分からないと思っていた

県内で最も高い1.77倍の倍率だったB高校を受験し、不合格だった鈴木花子さん(辺田中学3年)は、「この高校は倍率が高かったから、何が起るか分からないと思っていた。不合格といっても、まだピンとこない」と話していた。

◇ 落ちてもともと

C高校で不合格を知った佐藤一郎さん(雁間中3年)は、「既に私立高校の特進に合格していたので、ワンランク上の高校を、落ちてもともとで受験した。4月からは滑り止めの私立に進学するが、それにしても不合格はこたえる」と落ち込んだ様子だった。

◇ 友達はみんな合格したのに

D女子高校で不合格だった高橋さくらさん(出流田中3年)は、「この高校には、友達も何人か受験した。みんな合格だったのに私だけ……」と声を振り絞るように話していた。


富重県では、公立高に不合格だった生徒の大半は、滑り止めの私立高に進学したり、公立高の二次募集で再受験をしたりするが、一部には進路が決まらないまま終わる生徒もいる。

* * * * * * * * * *

公立高合格発表の新聞記事は、もっぱら合格者を取り上げる。不合格者は、心理的な面を配慮して記事にしないのだろう。新聞紙上では、不合格者は合格者の陰に隠れた存在と言える。

だが、不合格者にとっても、合格発表は人生の大きな一場面なのだ。喜びの声に満ちた新聞記事を読むと、そんなことを考えることがある。

2010年3月14日日曜日

諸国民の富の性質と原因に関する研究

国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究(上)アダム・スミスの『国富論』を読み返している。かねがね読みたかった山岡洋一氏の新訳本を、奮発して買ったのだ。

『国富論』は『諸国民の富』とも言われるが、原題は An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations と言う。訳すと、『諸国民の富の性質と原因に関する研究』といったところだ。つまり、『国富論』や『諸国民の富』は、略した言い方というわけだ。

『国富論』というと、よく「神の見えざる手!」と条件反射のように言う人がいるが、実は『国富論』の中では「神の見えざる手」という言葉はない。出てくるのは「見えざる手」という言葉で、しかも本文中にわずか1回出てくるだけだ。「神の見えざる手」という言葉は、『道徳感情論』(『道徳情操論』とも)という、アダム・スミスの別の本に出てくる。

実はアダム・スミスには倫理学者の一面もあって、先ほどお話した『道徳感情論』も倫理学の本だ。大阪大学の堂目卓生教授によると、最近のスミス研究では、『道徳感情論』を『国富論』の思想的基礎として重視する解釈が主流になりつつあるそうなので(堂目, 2008)、『国富論』を読むなら、できれば『道徳感情論』も併せて読んだほうが良いのだろう。私の大学時代(経済学部)のゼミの指導教官は、「世の中、アダム・スミスの主張を誤解している者が多い。アダム・スミスは倫理学の本も出している」とおっしゃっていたものだ。

山岡洋一氏が訳した『国富論』は実に読みやすく、すらすら読みすすめることができる。だが、最近の私はいろいろなものに手を出して、中途半端に終わっている。『国富論』を読み終えるのも、いつになることやら。

[文献]

◇ 堂目卓生(2008)『アダム・スミス-『道徳感情論』と『国富論』の世界』中公新書。

2010年3月12日金曜日

民放が1局か2局しかない県

地元のテレビ局の事情に詳しい人と話をする機会があった。東京では地上波の民放が5局あるが、この地域にはそれほどたくさんないので、テレビ東京系など、この地方にネット局がない番組は、各局が分け合っているという話だった。

それで思い出したのだが、私が最初にこの地方に引っ越してきた当時は、民放の数が本当に少なかった。それ以前に住んでいた地域は民放が豊富にあっただけに、カルチャーショックを受けた。以前の地域ではとっくの昔に放送が終了していたトレンディードラマが時差遅れで放送されていて、地元の人の間では「最新のドラマ」と認識されていた。クラスメイトの間で流行っていたアニメ番組が引越し先では放送されておらず、存在すら知られていない様子だった。国民的によく知られているテレビ番組も、引越し先では全く放送されていなかった。

当時のテレビ局はNHK総合とNHK教育、そして数少ない民放局しかなく、そのうちNHK教育を視ていた人は少なく、衛星放送やケーブルテレビも普及していなかったから、テレビ局の選択肢はほとんどなかった。中には、特別な機械を買って、隣の県のテレビ電波を受信している人もいたが、少数だったようだ。みながみなほとんど同じテレビ番組を視ていたのだろうか。視聴率50%超えの番組など、ざらだったのではないか。

このような状況に私は最初は戸惑ったが、そのうち慣れてしまった。

地上波の民放が1局や2局しかない県は、今でも存在するようだ。

2010年3月4日木曜日

本を読んでも分からない

情けないことに、本を読んでも、内容がさっぱり理解できないことが少なくない。洋書の話ではない。和書の話だ(洋書もよく理解できないことが多いが)。これでは、時間をかけて本を読んでいる意味がない。

私が理解できない本は、たいてい古典だ。古典といっても、『こわいわるいうさぎのおはなし』のような類のものは読みやすいが、私はふだんそういう本は手に取らない。

私がこれまで読んできた本の中で挙げれば、例えば、ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』や西田幾多郎の『善の研究』などは、私にとっては難解だった。もっとも、これは多少は仕方が無いことなのかもしれない。『一般理論』はもともと専門家向けに書かれたもので、出版当時は、マサチューセッツ工科大学でも理解できる者が誰もいなかったとサミュエルソンは語っている。『善の研究』は、もともと西田幾多郎が旧制第四高等学校の教師をしていた頃の講義の草案だが、この西田幾多郎の講義は、当時エリート中のエリートだった四高生にさえ難解だったと言われている(なお、私が『善の研究』を読んだのは大学1年の頃)。

この種の有名な古典は、解説書が出ていたり、何かの本で分かりやすく紹介されていたりすることが少なくない。難解な古典を少しでも理解するには、そうしたものに予め目を通したり、解説書を並行して読むなどすれば良いということを、経験的に学んだ。

ただ、それでも理解が難しいことが少なくない。何とかしたい。それとも、あまり背伸びして難しい本を読むのはやめた方がよいのだろうか。